Distance 8round over the distance 5

 幹太は朝、道場で正座をし、精神を集中させて朝練習を行う。それは毎朝のことで、今まで欠かしたことはない。

 だがあの日から幹太の集中力はかなり落ち、考えることは多保のことばかりになっていた。

 脅してしたキス。あれが忘れられない。

 過ちだと分かっていて、苦しかったのもよく知っているのだが、想いが通じなくても、ファーストキスは多保と出来た。それがどうにもこうにも感情を振り回してくる。

 あの日以来、多保は幹太には近寄ってこない。
 家族は幹太と多保が喧嘩をしたんだろうと思っているらしいが、今回の喧嘩は長いし、一生終わらないだろう。

 ただ一ついい傾向が出てきていた。
 多保が幹太の友達を呼び止めては何か楽しそうに話しているところを最近見るようになったことだ。
 多保は殻に閉じこもることをやめて、周りを見るようになった。それはいいことなのだ。

 分かっているのに、それがいいことだと分かっているのに、幹太は凄く嫉妬している自分がいることに気付いた。

 多保は俺のだったのに。俺だけのモノだったのに。そうした感情が溢れかえって、精神は集中しない。

 ここのところの練習は散々だった。
 今まで乱れたことのない精神が、まるで多保が襲われた時にあった凶暴なものになっている。
 嫌われるように振られるように持っていたはずなのに、多保を求める自分の欲求が大きすぎて、幹太は自分でも驚いていた。

 ここまで自分は多保ありきで生きてきたのだと。

 最初に助けた時から、幹太には多保は保護対象であり、大事な大事な宝物だった。
 その宝物を全部捨てると、幹太の中には何も残らない。

 幹太の父親は幹太の精神が不安定になっているのに気付いていて、生徒を見るような練習には参加させないようになった。
 未熟ものめが。それが父親の言葉だったが、その通りなのでなんの反論も出来なかった。
 多保の側にいるとおかしくなると思っていたが、離れてもおかしくなるのだ。
 
 ――――――だって、俺の世界は多保を作るために回っていたのだから。

 そんなことに気づいたのは、離れて二日も経ってない時からだ。
 だったらどうしたらよかったのだ。
 ずっと多保に想いを伝えずにいるなんてきっと出来ない。
 ふられても側にいたいけれど、多保に自分以外の誰かが出来たとして、自分が耐えられるはずがない。それが解っていたからこそ、離れたのに。
どうしても自分の気持ちを割り切れない。それが分からない。

 そうして幹太は正座したまま、一時間もそのことで悩んでいた。
 すると道場に誰かが入ってきた。

「幹ちゃん、ちょっといいかな。練習邪魔しちゃうことになるけど」
 道場に入ってきたのは早穂(さほ)だった。制服を着ていないところを見ると、早起きをしてこっちにやってきたらしい。

「いいよ、練習と言っても集中力が全然でないから。それでどうしたんだ早穂。こんなところまできて」
 幹太が脚を崩して座ると、早穂は幹太のところまで来て、誰もいないのを確認すると言った。

「幹ちゃん、多保ちゃんと喧嘩した本当の原因聞いていい?」
 単刀直入に早穂が聞いてきた。

 幹太と多保が喧嘩していることは皆知っているが、原因について二人は語っていない。だから周りがお節介を焼くことはある。それでも双方が頑なに原因を言いたがらないから、取り付く島がない状態だ。幹太の高校の推薦の話が多保にバレたからというのは一つの原因だろうが、それだけではないと周りも解ってきていたらしい。

 喧嘩が約一ヶ月続いている。
 さすがに何かあったと思う人も出てくるだろう。

「早穂でもそれは言えない」
 それでも多保が喋らないなら幹太から言えない。
 そう幹太が返すのが分かっていたのか早穂は溜息を盛大に吐いた。

「やっぱこっちも駄目かあ……つーかもう多保ちゃんが怖いんだよ……俺どうしていいのか分からなくて、それで幹ちゃんに原因聞こうって思って」
 早穂は座り込んだまま、どうしたらいいんだと頭を掻き回していた。

 早穂が多保のことを心配するのは珍しいことではないが、ここまで口出ししてくるのは珍しい。
 早穂も多保に似て、他人のことには口出ししない性格だが、多保の頑なな様子とは違って、こっちはまだ普通に人と接することは出来る。

「怖いってどうしたんだ。理由を聞いて怒られたのか?」
 幹太が苦笑してそう言ったが、早穂は首を横に振った。

「怒らないけど。その代わり部屋中にアルバム広げて、それに何かメモ付けてる。それも睡眠時間削ってずっと……。だからどうしたんだって聞いたんだけど、どうしてもやらないといけないことだって言って、なんていうか鬼気迫ってて怖い。あんな多保ちゃんみたことないからさ」

 アルバムにメモ?
 なんだ訳が分からないことを多保が真剣にやっているらしいが、その理由が分からない上に、多保には睡眠過多という症状がある。だから睡眠時間を削るというのはかなり重労働のはずだ。

 多保の睡眠障害は、精神的にくるものだと幹太は知っている。だからその睡眠を削るまでして多保がしていることが何なのかは気になる。

「ずっとっていつから?」

「幹ちゃんと喧嘩して、その後二週間してからかな。ずっと部屋に籠もってたから、正確にいつからやっていたのかは分からないけど。もう異常にしか見えなくて……お母さんもどうしていいのか分からなくて」
 二週間といえば、多保が他人と話すようになった時からだ。
 一体多保は何をしているのだろうか。

「幹ちゃんに縋るのは間違いだって分かってる。でも俺らじゃもう多保ちゃんは言うこと聞かないんだ。父さんは放っておけって言ってるけど、アレは異常だよ」
 早穂はただアルバムを見てメモをつけているだけなら放って置いた。だが異常な様子が伝わってくるだけにどうにかして多保にアレを止めて欲しいのだ。

「何かいい案ない? あれを止めるだけでいいんだ。多保が何も出来なくたって、俺が居なくなる幹ちゃんの変わりをすればいいんだから」
 早穂がそう言った時、幹太の中でもの凄い嫉妬が生まれた。

 早穂は多保の弟だ。兄にちょっとした精神障害があるなら助けるのは当たり前であるし、居なくなる予定になっている幹太の変わりをすることは幹太がそう持っていたことだ。
 なのに、酷く嫌な気分になった。
 多保は俺のモノなのに、早穂が俺の変わりを務めるのかと思ったら怒りが抑えられなかった。
 幹太は拳を畳に思いっきり叩きつけた。

「……幹ちゃん?」
 いきなり幹太がそんな行動に出るとは思わなかった早穂は驚いて、座ったまま数歩下がった。
 幹太はそんな嫉妬が出てきて、やはり自分を制御出来なくなった。

 すくっと立ち上がって幹太は走って道場を出た。着替えはせず、そのまま前鹿川家に駆け込んだ。
 ちょうど玄関に居た多保の母親が居たが、ろくな挨拶もせずに幹太は二階の多保の部屋に直行した。

 部屋のドアを開けると、さすがに怒っていた幹太も部屋に入るのに躊躇した。
 多保は部屋に居たが、その部屋が問題だった。
 広げられたアルバムは10冊以上ある。さらに卒業アルバムや散らかったメモなどが散乱している。
 綺麗好きの多保の部屋はそれらに覆われていて、足の踏み場もないほどだった。

 これで幹太にも早穂が言っていた異常だという意味が理解出来た。
 多保は制服に着替えていたが、アルバムとメモを必死に読んでは小さなメモを作っている。それらはアルバムに貼られていて、一見、ただのアルバムの整理に見えるがそんなものじゃないのはこの部屋の異常さで分かる。

「多保、何、やってるんだ……?」
 さすがに怯んだ幹太は部屋に入らずに多保に尋ねた。多保はゆっくりと顔を上げて、何処を見ているのか分からない瞳で幹太を見た。

「うん、ちょっと思い出していた」
 多保はそう無表情で言うと、また目の前のメモに目を落としている。ぶつぶつと何か呪文でも唱えているように聞こえるから不気味だが、よく聴いていると。

「この日は確か、高橋がふざけてて、それで缶ビール持ち込んだのが幹太にバレて、それで喧嘩になりかけたっけ……ああ、それで先生が見回りに来そうで、幹太が咄嗟に高橋に缶ビールの入った袋持たせて押し入れに閉じこめて、先生が来たフリして高橋を一時間押し入れに入れたままにしておいたんだ」
 多保が言っているのは修学旅行の話だ。

 確かにそういうことはあった。皆が結託して高橋をだまして、一時間も閉じこめて、後で皆で先生に見つかるよりマシじゃんと笑い、押し入れでハラハラしっぱなしだった高橋も懲りて缶ビールをこっそり捨てに行った。今ではあの時は危なかったし、妙な面白さと緊張感があったなあと高橋は武勇伝にして笑い話にしているくらいだ。

 昨日、高橋を呼び止めて楽しそうに話していたのは、この話をしていたのだろうか。
 ふと足下にあるメモを数枚見てみると、昔あったことがいくつも書かれていた。それは全部多保と幹太が一緒に居たときに起った出来事ばかりだった。
 まるで記憶を無くした人間が、その時のことを誰かに聞いてそれを元にし、記憶を蘇らせてるようだった。

 だがこれは異常だ。
 多保は自分でも喋っていた通りに、ちゃんと出来事を覚えている。

「多保、もうやめろ。何の為にこんなことしてるんだ!」
 幹太は多保が持っていたメモを取り上げて、その作業を止めた。
 それで我に返ったらしい多保は、目の前に幹太がいることに驚いていた。

「……幹太……」
「多保、お前は何やってるんだ? こんな無意味なことしてどうするんだ?」
幹太がそう問うと多保が大きな声で叫んだ。

「だって俺は幹太と一緒に居たのに、昔のこと、幹太があの時どう思ってたとか全然気付いてなかった! どれだけ鈍いって言っても、見逃すなんて信じられない! だったら昔のこと詳細に思い出して、お前が何を考えたか全部知りたかったんだ!」
 多保はパニックになって幹太に縋り付いていた。

「俺は馬鹿だから、全然知らなかったんだ! 一人になるってことがどんなことなのか、どれだけ寂しいのか知らなかった! ずっと幹太が居てくれたから、俺は寂しくなかったから!」
 そこまで叫んでしまった為に、相談に行った早穂や幹太が慌てていた様子を見た母親が心配をして、部屋を覗いていた。
 けれど多保はそれは気にせずに叫んでいる。

「幹太が居なくなるのが寂しい、寂しくて寂しくてなんでここまで寂しいのか分からなかった……どうして幹太が居なくなるって分かっただけで、俺の世界は終焉みたいになってるんだ……」
 その理由が知りたかった。
 多保がそうぶちまけると、幹太は多保を落ち着かせて静かに聞いた。

「だったらどうして行かないでって言わないのかな?」
 ここまでパニックになって叫んでいる多保を見るのは初めてだ。それも幹太を意識して、居なくなることに敏感に反応して、誰にも見せたことがない醜態を晒している。

「だって……皆が言うんだ。もう幹太を自由にしてやれって言うんだ……俺に幹太の人生を壊す権利はないって、口ではっきり言うんだ……だから言えない……行かないでなんて言えない……」
 多保は泣きながらそう言っていた。
 皆が言うくらいに自分は幹太を束縛してきたのだ。だから自由にしてやるのが本当にいいことだ。
 けれど。

「でも……駄目なんだ……幹太が俺のこと好きだって言ったから…………好きなんていうから……」
 気付いてしまった。
 関心がないフリをしていたのは、幹太を意識して戸惑う自分をごまかす為にしてきたことだということに。

 ――――――気づいちゃいけない、幹太を好きだなんて。
 ずっと自分を戒めてきた言葉。

 ――――――認めないと幹太が居なくなる。
 そうしないと幹太と二度と会えなくなる。

「俺の中、ぐちゃぐちゃだ……どうしてくれる……お前が居ないと……俺、生きていけないくらいに、お前のこと意識しちゃってるじゃないか……っ!」
 多保がそうぶちまけボロボロと泣く。
 幹太は目眩を起こしそうだった。
 これはある意味、告白だ。それも愛の。

 幹太が居ないと多保自身がまともに作動しない。
 幹太は多保が側にいると凶暴になりそうだと不安になり、離れてからずっと幹太も多保が居ないとまともに作動しないことに気づいた。
 
 今更離れることは、もう出来ないくらいに、二人は精神的に繋がっていた。それを断ち切ろうとするから二人は不安になった。

「……多保、その気持ちをなんていうか知ってる?」
 幹太は答えが聞きたくて、多保を促す。
 多保は幹太に抱きつくと小さな声で言った。

「……好き……幹太が好き……」
 多保が答えると幹太は多保を抱きしめ返した。
 多保がやっと認めた本音。ずっと隠してきて誤魔化してきたもの。

「うん、何処にも行かない。俺も多保が居ないと生きていけないみたいだから」
 幹太はそれを素直に認めた。
 どう足掻いても離れることは出来ない。

 幼なじみだけの繋がりだったわけじゃない。秘密を共有し、お互いを頼りに生きてきた。
 混乱していた多保は、やっと幹太から言って欲しかった言葉を聞いて、安堵のあまり気を失った。
 ずっしりと重い体重がかかって、幹太は慌てて支えると、ベッドに運んで多保を寝かせた。

「ほとんど寝てなかったみたいだし……まあこうなるわな」
 早穂が事態が収拾したのを見届けてそう呟いた。
 慌てたのは幹太だ。そこには多保の母親も居たからだ。

 マズイ、非常にマズイ。
 同性愛なんて理解されない。
 自分の息子がそうだと知ったらさすがの前鹿川(ましかわ)家もショックを受ける。
 そう幹太が思っていると、母親はほーっと息を吐いて言った。

「やっぱり多保には幹太くんがいないと駄目なのね……この子、幹太くんの言うことしか聞かないんだもの……お父さんになんて報告すればいいかしら。多保をお嫁に出す? あらやだー後生川(ごせかわ)さんになんて言って貰ってもらえばいいのかしら」
 母親は昔から多保が幹太を意識するあまりに関心がないフリをしていたことを知っていたらしい。
 だからこういう結末になることも当然だと思っていたようだ。

「あ……いや……うちの親父は、俺が多保を好きなのは、知ってるというか……それが原因で、高校を別にすることになった……とかで」
 幹太が正直に今回の騒動の原因が自分にあると言うと、多保の母親は笑顔になって言った。

「じゃあ、お父様とお話しておかなければ。でもうちのぐーたら多保でも貰って下さるかしら」
 母親はそう言いながら一階へ下りていく。
 そんな母親を見送ってから早穂が言った。

「気付かれてないって思ってるの本人たちだけだと思うよ」
 そう言われて幹太はがっくりとベッドに顔を落とした。まさかバレバレだとは思わなかったのだ。

「……なんだよーそれ」
「幹ちゃん分かりやすいし、多保は単純だしね。健太も七海も知ってるよ」

「……バレバレ過ぎて情けない」
 幹太は弟たちにまで知られているとは思ってなかったので更にショックだった。

「幹ちゃんはさ、健太たちより多保ちゃんを大事にして優先してたし、多保ちゃんは幹ちゃんの言葉にしか聞かないしじゃあねえ。それこそ本人たちが自覚するまでは黙っていようっていう話になっていたんだよ」
 早穂たちは二人が自覚するまでは余計なことを言うのをやめようと約束しあっていた。
 なにより多保の方が受け入れる器がないことは毎日見ていたら分かったことだったからだ。

「でね、健太が多保ちゃんを焚き付けたからごめんねって言ってた。なんか幹ちゃんのこともう要らないよねみたいに言ったとか」

「それ、いつ?」
「二週間前だって」

「んじゃ、もう時効でいいです」
 どうやら健太の一言が多保をこんな風に混乱させたようだが、結果がよければ問題はない。
 なにより嬉しい言葉を多保から貰ったし、健太が追い打ちしなかったら多保はあのままだっただろう。

「幹ちゃん、一つ聞いていい?」
 早穂は去り際に幹太に質問した。

「どうして多保っちゃんがそんなに好きなの?」
 至ってシンプルな質問だ。

「どうしてって……分からないけど。俺が多保を守るんだっていう、子供の頃からの使命からかな」
 ヒーロー気取りの子供が、多保だけを守るために全て多保に捧げてきた。
 その先がないかもしれないということが分かってからジタバタして藻掻いてみたが、結局、結論を出すのは多保だった。

 多保は幹太に嬉しい結論を出してくれた。それだけで今は満足だった。
 嬉しそうに多保の顔を見て微笑む幹太を見て、早穂は静かにドアを閉めた。一階の降りようとすると、母親の笑い声が聞こえてきた。
 どうやら後生川(ごせかわ)家からも良い返事がきたらしい。